ある変質者の憂鬱

僕は、どこにでもいるごく一般的な人間だと信じている。
善良とは言えないまでも、交通違反以外で、警察のやっかいになる事はない、と断言してもいい。
そんな僕が、一度だけ経験した、苦い体験を語ろう。

あれは大学時代のことだ。
ある夜、とある友人宅へ遊びに行ったのだが、おり悪く友人はまだ帰宅していなかった。
まあ、すぐ帰って来るだろうと思い、僕は外で待つ事にした。
しかし、マンションの玄関前にたたずんでいては、あらぬ誤解を受けるかもしれない。
いや、そんなこともないだろうと否定しながらも、どこかに『不審人物と見られはしないか』という不安が残る。
『李下に冠を正さず、瓜田に靴を入れず』の格言もある。
僕はマンションの裏手に回ってみた。

人通りの少ない裏通りである。
幸か不幸か、辺りに人の気配はなく、これからもなさそうと思わせる場所だった。
ここならいい。友人が帰宅すれば、部屋の明かりが灯るだろう。
別に長丁場を覚悟した訳ではない。
この場所に立つ理由を求めるために、僕は愛用のジッポーで煙草に火を点けた。
電柱には今にも消えそうな薄黄色い街灯がひとつだけ、ライターの炎よりも弱い光を放っていた。

どれくらいたっただろうか。左手の方向から足音が聞こえてきた。
ヒール独特の、コツコツという、甲高い音だ。
静寂の中で、それは異様なほど響きわたっていた。
月も出ていない夜である。僕は、足音の人物を認識するのに、やや時間を要した。
仕事帰りであろうか、ＯＬ風の女のコである。
僕は、変に目を合わすのもイヤだったし、誤解されてもいけないと思ったので、努めて無視することにした。
ゆっくりと近づいてくる彼女、うるさいほどのヒールの音、やがて僕の目の前を通り過ぎる。

『・・・・？』

おかしい・・・。なぜかその辺りから、ヒールの音が早くなった。
徐々にではあるが、確実にその回転数は上がっていく。
徐々に、徐々に、そして、どんどん、どんどん、どんどん早くなっていく。
僕の視界から消える頃には、ほとんど全力疾走になっていたに違いない。

・・・・・・・・

やがて、辺りは静寂を取り戻した。
頭上の街灯は緊張の糸が切れたのか、力尽きた蛍光灯特有の点滅を始めていた。
僕は、足音の去った方向に視線を向け、何も見えるはずのない空間を凝視していた。

『なんで？ なんでだよーっ！』

静寂に向かって叫んではみても、闇は答えてくれなかった。